屋島の合戦ののち、源義経は兄の範頼(のりより)と合流。
総力を上げ、最後の戦いに臨む。平家につかえる身であった熊野別当湛増(くまののべつとうたんぞう)が源氏へつくなど、平家の軍勢は厳しいものとなっていた。
さらに戦いの中途で阿波民部重能(あわみんぶしげよし)が源氏方に寝返り、四国、九州の兵たちも平家にそむいていく。平家の最期を覚悟した平知盛(たいらのただもり・清盛の四男)は、安徳天皇の船へ移りその旨を伝えた。
清盛の未亡人であり、天皇の祖母にあたる時子は、その場で8歳の天皇を抱き、海へと身を投げる。清盛の弟や孫もこれに続き、他の武士も自害をして果てていった。
この戦いの後に都では「平家の子孫を探し出した者には望み通りの恩賞を与える」というお触れが出されたため、ついに平家は断絶を余儀なくされた。
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